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「僕を一番愛してくれたのは、母だった」──26歳で逝った兄が残した言葉

《読み始める前に》

幼なじみである同級生の長男が、高校を卒業して間もなく、白血病で亡くなりました。

通夜の席で、悲しみに暮れる同級生の姿を見ながら、私は自分の母のことを思い出していました。

母もまた、長男を白血病で亡くしています。

26歳で亡くなった、私の兄です。

兄の短い人生と、兄を育て、最期まで看病した母の姿を振り返りながら、「子育ての成功とは何だろう」と考えてみました。

同じ白血病で長男を亡くした父親

同級生の長男は、白血病と診断されてから約10か月間、家族とともに病気と闘いました。

「苦しむ息子を救ってやりたい。でも、何もしてやれない」

涙で声を詰まらせながら話す同級生の姿を見たとき、私の両親も同じ思いだったのだろうと、胸が苦しくなりました。

私の両親も、長男である兄に先立たれています。

兄が26歳のときでした。

病名は、同じ白血病でした。

母の期待を背負った兄

兄は、母にとって初めての子どもでした。

母は兄をかわいがり、ピアノ、絵画、そろばんなど、さまざまな習い事をさせました。

高校も進学校に入れたいと考え、家庭教師もつけました。しかし、思うように学力は伸びず、学校での個別懇談を終えて、がっくりと肩を落としていた母の姿を覚えています。

兄にとって、高校受験のプレッシャーは相当大きかったのでしょう。

受験のわずか1週間前、兄は激しい腹痛を訴え、病院へ運ばれました。

十二指腸潰瘍によって腸に穴が開いており、緊急手術となりました。

手術の途中で呼ばれた母は、腸から漏れ出したものによって膿だらけになった兄のお腹を見せられ、失神してしまったそうです。

初めのうち、母は、

「高校の二次募集に間に合うだろうか」

と心配していました。

しかし、生死の境をさまよう兄の姿を見て、そんな思いは一変しました。

「高校なんて、もうどうでもいい。とにかく助かって」

ただ、それだけを祈ったそうです。

1年遅れて始まった高校生活

一命を取り留めた兄は、3か月以上の入院を余儀なくされました。

そして、当時としては極めて珍しい「中学浪人」となりました。

教育委員会の特別な計らいによって、もう一度、中学3年生として学校に通うことになったのです。

最初のころ、年下の同級生たちは兄を「〇〇さん」と呼んでいました。

しかし、2、3か月もすると、ほかの生徒と同じように名前を呼び捨てにし、自然に仲間として受け入れてくれたそうです。

1年遅れて、兄は無事に高校へ進学しました。

高校では、ギターを弾いてコンサートを開いたり、演劇部で活動したり、弁論大会で優勝したりしました。

社交的で、人気のある兄でした。

親友が「応援団長になりたい」と立候補したときには、兄が応援演説を買って出ました。

その演説のおかげもあって、親友は応援団長に選ばれたそうです。

大学時代、兄がその親友のアパートへ泊まりに行くと、親友は自分が床に寝て、兄をベッドに寝かせてくれたといいます。

それほど、兄の応援演説に感謝していたのでしょう。

歌手になる夢

兄は、東京の大学へ進学しました。

そして歌手を目指すため、あえて大学を1年留年しました。

観客を400人も集め、自分のコンサートを成功させたこともあったそうです。

母のアルバムには、大ヒット曲『我が良き友よ』で知られる、かまやつひろしさんと一緒に写った写真も残っていました。

兄は、当時放送されていたテレビ番組『スター誕生!』のオーディションにも参加しました。

後になって、

「三次選考まで行ったけれど、顔が駄目だったから落ちた」

と、冗談めかして話していました。

母によれば、歌手の布施明さんのコンサートで前座を務めたこともあったそうです。

実家には、そのときのポスターが送られてきました。

兄は懸命に夢を追いました。

しかし、最終的には歌手への道を諦めました。

ようやく見つけた、自分に合った仕事

就職活動では、母も必死になりました。

新潟県出身の元首相、田中角栄氏の秘書に相談したこともあったそうです。

そうした力添えもあったのでしょう。兄は東京の不二サッシに就職しました。

しかし兄は、

「周りは優秀な人ばかりで、とてもきつい」

と話していました。

結局、その会社を辞め、地元の新潟へ戻ってきました。

その後、地元の広告会社に再就職しました。

そこでの広告営業の仕事は、兄の性格によく合っていたようです。

「今の広告取りの仕事は、性に合っている」

そう言って、楽しそうに働いていました。

結婚を考えて付き合っている女性もいました。

仕事も恋愛も順調で、兄の人生は、これから大きく開いていくように見えました。

「最悪の場合」が現実になった

9月のこと、兄に37度ほどの熱が出ました。

高熱ではありませんでしたが、それが1週間ほど続いたため、病院で診てもらうことになりました。

たまたま、そのときは私も兄も、交際していた女性も一緒にいました。

診察した医師は、

「最悪の場合、白血病です」

と話したそうです。

私は、

「本人を目の前にして、そんなことを言う医者がいるのか」

と言い、3人で笑い合いました。

ところが、その「最悪の場合」が現実だったのです。

後日、親も一緒に来るようにと言われ、本人ではなく、母が本当の診断を聞きました。

両親は悩んだ末、兄に本当の病名を告げないことにしました。

輸血や移植など、さまざまな治療が試みられました。

医師も懸命に治療してくれました。

しかし、発症から7か月後、兄は亡くなることになります。

真実を隠しながら続けた看病

どれほど重い病気であっても、回復していく見込みがあるのなら、看病する側にも希望があります。

しかし母は、残された時間が長くないと知りながら、兄を看病していました。

その苦しさは、私には想像することしかできません。

治療の途中、兄は何度か一時退院しました。

兄が友人たちを家に呼んで大騒ぎしていると、母はうれしそうに、せっせと料理を作り、ビールを運んでいました。

母は笑顔で料理を作っていました。

けれど、その胸の内は、つらくてたまらなかったはずです。

兄が亡くなる1、2か月前の、2月か3月ごろだったと思います。

当時、大学4年生でアパート暮らしをしていた私のところへ、母から電話がありました。

特別に用事があるわけでもなく、何気ない内容の電話でした。

電話を切ったあと、

「どうして、わざわざこんなことで電話をしてきたのだろう」

と不思議に思いました。

今になって考えると、母は、大切な長男を失うかもしれないという悲しみに押し潰されそうだったのでしょう。

つらくてたまらなくなり、もう一人の息子である私に電話をかけたのだと思います。声が悲しそうでしたから。

間に合わなかった最期

3月に、私は大学の教育学部を卒業しました。

そして4月、県内の特別支援学校に就職しました。

4月16日。

私が学校で体育の授業をしていると、

「兄、危篤」

という連絡が入りました。

私はすぐに高速バスに乗り、約100キロ離れた病院へ向かいました。

しかし、わずかに間に合いませんでした。

病院に着き、急いで病室へ入ると、ベッドの両脇で父と母が泣いていました。

兄は、26歳の若さで亡くなったのです。

葬儀で泣き崩れた彼女

兄は社交的で、とても人気がありました。

葬儀には、同級生など100人を超える方々が弔問に訪れました。

その中に、兄が生前、

「結婚したい」

と両親に話していた女性もいました。

彼女は棺を前にして、泣き崩れていました。

兄の病名を知った父は、

「将来のある娘さんと結婚させるわけにはいかない」

と考え、結婚に反対していました。

しかし、兄なら、それだけで結婚を諦めることはなかったはずです。

後に見つかった兄の日記から、二人が結婚に至らなかった理由は、それだけではなかったことが分かりました。

彼女が熱心に勧める宗教団体に、兄は入会したくありませんでした。

一方、彼女は、同じ団体に所属する者同士で結婚しなければ幸せになれないと考えていたようです。

そのため、二人は一時的に距離を置いていました。

そうした状況のまま、兄は亡くなりました。

兄は、自分に合った仕事をようやく見つけたのに、その仕事を休まなければなりませんでした。

結婚したいと思っていた女性とも離れました。

懸命に病気と闘いましたが、助かりませんでした。

無念だったと思います。

ノートの端に残されていた一行

葬儀を終え、遺品を整理していたときのことです。

兄が病院や自宅で書いていた日記のノートが見つかりました。

そこには、彼女とのことをはじめ、兄が感じていたさまざまな思いが記されていました。

そのノートの端に、兄は一行だけ、こう書いていました。

「僕を一番愛してくれたのは、母だった」

その言葉を見つけた私は、すぐに母に知らせました。

母はノートをじっと見つめ、目を潤ませていました。

母が支え続けた、兄の夢

母が望んだ通りの進学校へ、兄を進ませることはできませんでした。

それどころか、兄は病気のために高校を受験することすらできず、中学3年生を二度経験しました。

大学にも5年間通いました。

歌手を目指しましたが、夢はかないませんでした。

東京の会社に就職したものの、辞めて地元へ戻りました。

それでも兄は、自分に合った仕事を見つけ、

「この仕事は、俺の天職だ」

と言えるようになりました。

結婚を考える女性とも出会いました。

ようやく人生が順調に進み始めたとき、急性骨髄性白血病を発症しました。

そして、発症から7か月後、26歳で亡くなったのです。

母にとって、兄の子育てとは、どのようなものだったのでしょうか。

母は洋裁の仕事をして、私たちの学費を稼いでいました。

社長夫人や医師の妻、飲食店を経営する女性などのために洋服を仕立て、その収入で家計を支えました。

兄が東京の私立大学に5年間通うには、父の給料だけでは難しかったからです。

母は、自分の洋裁の仕事で、兄の夢を支えたのです。

最後の最期まで、兄のそばに

兄が病気になってからの看病も、主に母が担いました。

本当の病名を隠しながら、一時退院した兄が友人を呼んで騒ぐことも、コンサートを開くことも受け入れました。

画像
亡くなる年の1月、喫茶店でコンサートを開いた兄

残された時間の中で、兄が好きなことを思い切りできるようにしたのです。

兄が交際していた女性と離れていたときも、母は最後の最期まで、兄のそばにいました。

そして人生の終わりに、兄は、

「僕を一番愛してくれたのは、母だった」

と書き残しました。

兄の人生は、母が思い描いた通りには進まなかったかもしれません。

むしろ、思い通りにならなかったことのほうが多かったと思います。

望んだ進学校へ進ませることはできず、中学浪人となりました。

大学では、歌手を目指して1年留年しました。

それでも、夢はかないませんでした。

東京で就職したものの、仕事を辞めて地元へ戻りました。

ようやく自分に合った仕事を見つけ、人生が開けてきたと思った矢先、白血病に倒れ、26歳で亡くなりました。

母にとって、兄の子育ては、思い通りに進まなかったことのほうが多かったと思います。

それどころか、悔やんでも悔やみきれないことが、いくつもあったのだと思います。

子育ての成功とは何だろう

母は、そうした状況の中でも、精いっぱい、最後の最期まで息子を支え、愛し続けました。

そして、その思いは、兄に確かに伝わっていたのです。

「僕を一番愛してくれたのは、母だった」

この一文に、母は救われたのではないでしょうか。

そして、それまで注いできた愛が報われたと感じたのではないかと思います。

子育ての成功を支える柱の一つが、親と子の心が信頼でつながっていることだとすれば、

「僕を一番愛してくれたのは、母だった」

と書き残された母は、子育てに成功したのではないか。

私は、そう思っています。

兄の歌手への夢は、結果として叶いませんでした。

それでも兄は、長い間、夢を追い続けることができました。

自分に合った仕事にも出会いました。

結婚を考えるほど大切な女性とも出会いました。

そして、仕事にも恋にも挫折し、病気と闘うことになったあとも、母は兄を支え続けました。

兄は、最後の最期まで、母の愛の中にいたのです。

そして、その愛を確信して旅立ちました。

母の愛を受けながら、自分の夢を追い、自分なりの人生を懸命に生きた兄。

そんな兄もまた、幸せだったのではないか。

今の私は、そう思っています。

子育ての究極の願いが、子どもの幸せにあるのだとすれば、母はその願いも果たしたのではないでしょうか。

(2026年6月16日記)

共感していただけたところや、心に残った言葉がありましたら、「スキ」でそっと教えていただけるとうれしいです。

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👉 「長男の死を前にして、親ができること」

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、若い頃に書いた『あったかい家族日記』の復刻ではなく、26歳で亡くなった兄と、兄を最後まで支え続けた母について、現在の私が記憶をたどりながら書きました。

子育ての成功は、成績や進学、就職といった、目に見える結果だけでは測れないのだと思います。

子どもの心に、

「自分は愛されていた」

という確かな思いを残すこと。

それもまた、親が子どもに手渡すことのできる、かけがえのないものではないでしょうか。

『パパの子育て奮戦記』では、プレパパや、小学生までの子どもを育てるパパに向けて、子どもとの関わり方や、しつけ、あいさつ、家族の時間など、子育ての中で大切にしたいことを、実体験をもとに綴っています。

子育ての中の小さな出来事や家族の記憶が、どこかで誰かの気持ちを少しだけ温かくしたり、家族について考えるきっかけになったりすれば、うれしく思います。

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