泉河潤一の教員時代
ープロフィール その4ー
泉河潤一は「日本の家族の再生」に後半生を捧げようと決意しています。
なぜそのような大それた志をもつにいたったのか!?
次の4つの時代を読むとわかります。(前号より)
その「教員時代」について紹介します。
3.教員時代 ーサークルを作り切磋琢磨しあうー
教員採用試験に合格し、県内のある養護学校(今でいう特別支援学校)に採用されました。それは、小学部・中学部・高等部そして寄宿舎まであり、職員だけで100名を超えている大きな学校でした。私は、その小学部の教員となり、高校時代からの夢を叶えたのです。
3年間この特別支援学校に勤めた後、私は通常の小学校に転勤することになりました。
学ぶ意欲に燃えていた私は、若手教員向けのあるセミナーに参加しました。そこで、同じように学ぶ意欲に燃えていた若い教師たちに出会いました。その中の2名に、「いっしょにサークルを作って自主的な勉強会をしないか」と声をかけたのです。こうして自主的な勉強会が始まりました。
私のアパートで、お互いの教育実践を持ち寄り学びあったのです。例えば、研究授業の学習指導案や授業記録、学級通信、様々なセミナーに参加しての報告、職員会議に提案する資料、読んだ本の内容のシェアなど、お互いの真摯な教育実践から学びあいました。月2回、こうした勉強会を毎回2、3時間ほどやっていました。
2年ほどして研究会でたまたま知り合った若い人に私が声をかけ、メンバーがまた一人増えました。
メンバーはみな20代。一番年上の私がサークルの代表をしていましたが、上下関係もなく真剣に学び合いました。若さとともに、子どもにとって価値ある教師になりたいという志がメンバーに共通していました。
このサークルメンバー4人での学び合いを15年間にわたって続けたのです。
その後、私が大学院に行った関係もあり、5年間ほどサークルを休んだこともありました。その後復活し、年1回は私の自宅でお互いの活動報告を兼ねて1泊2日の合宿形式でサークルを10年以上行なっています。
約20年後以降、4人のメンバーはどうなったでしょうか。
算数を専門にしていたO氏は、算数の授業実践で「文部科学大臣賞」など数々の賞を受賞し、その後次々と算数教育の本を出版するようになりました。その数は10冊を超えています。関西のある私立大学の初等部教諭としてヘッドハンティングされ、算数教科書の編集委員なども務め、全国の算数教育をリードしています。
国語と英語教育を専門にしていたS氏は、英語教育の先駆的な実践を進め、英語教育の本を3冊出版しました。その後、教育委員会の指導主事となり、現在は校長としてリーダーシップを発揮し学校経営をしています。(2019年4月からある教職員大学院の准教授となりました。)
情報教育を専門としていたT氏は、ジャストシステムのソフト開発のアドバイスをするほどコンピューター教育に詳しくなり、指導主事となった後、現在はある教育大学准教授となって教師を目指す若者を指導しています。(2020年4月からある小学校の校長になりました。)
私、泉河潤一は、特別支援教育を専門にしながらも、「家庭教育こそ子育ての要である」という立場から、子育て本『うちの子、どうしていうこと聞かないの!と思ったら読む本』を出版しました。近年は、学級担任を離れて拠点校指導教員として新採用教員を指導する仕事をしたり、特別支援教育コーディネーターとして通常学級における荒れた子やその保護者、担任教師の相談にのったりしています。(2019年4月からは5年ぶりに特別支援学級の担任をしています。)
このように、4人メンバー全員が、これまでの学びを、後輩を育てることに生かす立場になり活躍しています。それは、子どもにとって価値ある教師になりたいという4人に共通した志が結実したのだと思っています。
そして今、私は、「日本の家族の再生」のために後半生を生きようと決めているのです。
なぜ私が、「家庭教育こそ子育ての要である」と考え、「日本の家族を再生しよう」などという大それた志をもつことになったのでしょうか。
それは、2年間大学院で学んだ後に、荒れた子どもたちとの出会いがあったからでした。