目次から検索、子育てがうまくいくヒント

犠牲者0だった、南三陸町立戸倉小学校 ー子どもたち全員を救った教員の一言ー

恒例の夏休み家族旅行。今年は、2011.3.11東日本大震災を受けての、東北(岩手・宮城等)の被災地巡りに決めた。百聞は一見にしかずで、我が子に被災地を目で見て体験してほしっかったからだ。その3は、南三陸町「震災を風化させないための語り部バス」その2編である。

2012.8.15 被災地を巡る家族旅行 その3  第913号

ー南三陸ホテル海洋「震災を風化させないための語り部バス」その2ー

近況
前記事で、私は、月刊『致知』2012年3月号のインタビュー記事②
南三陸ホテル観洋女将 阿部憲子「百歩でも二百歩でも前へ! 南三陸町を守り続けた女将の奮闘記」(40ページから44ページ)を読んで、南三陸ホテル観洋に宿泊し、「震災を風化させないための語り部バス」ツアーに参加することに決めたと書いた。

そのインタビュー記事の最後に、阿部さんは次のように書いていた。

阿部「一睡もしないで迎えた三月十二日の朝、前日が嘘のように静まりかえった太平洋の向こうから、何事もなかったようにいつもどおり朝日が昇ってくるのをホテルのラウンジから見ていました。それは残酷だと思うくらい美しかった。」(同誌44ページより引用)

かくて南三陸ホテル観洋に8月14日宿泊した私と妻、アキコ、クニコは、翌朝の日の出を見ることにした。日の出予定時刻は、4時50分である。
いつも早起きの私ファーザーとアキコはよしとして、妻とクニコは少し心配。でも、実際は杞憂であった。
早朝4時30分。私が妻に声をかけると、妻はぱっと起きた。

妻「ほら、クニコすぐに露天風呂に行く支度をしなさい。(露天風呂で)朝日を見るために起きたんだから。」

こう言って、すぐに準備をして、2階の露天風呂へ向かっていった。(後で聞くと、すごくきれいだったそうだ。)

私は、部屋から日の出の様子を、ビデオと写真で撮影した。
実は、太平洋側からの日の出を、私は初めて見たのだが、美しかった。

朝日.JPG

百名を超えていたバスツアー参加者

8月14日は満室で、翌朝15日の「震災を風化させないための語り部バスツアー」の参加申し込みは、百名を超えていた。
その結果、バス3台に分乗してのスタートとなり、私たちの家族は3台目のバスに割り振られていた。

コピー ~ IMG_0492.JPG

↑ 南三陸ホテル観洋から遠くの防災対策庁舎を望む

時間は、8:45~9:45の1時間である。公立志津川病院・高野会館・防災庁舎・ベイサイドアリーナ・魚市場などを回っていくのだが、防災庁舎は、唯一参加者全員がバスから降りてお参りした。

南三陸町の防災対策庁舎とは、何と「6メートルの津波が予想されます。逃げてください」と津波が迫る中、最後の最後まで防災無線で避難を呼びかけた、町職員遠藤未希さん(24歳)のエピソードのうまれたその場所である。(このエピソードを当時の新聞で読み、私は感動していた。)

子どもたち全員を救った教員の一言

バス三台に分乗して、被災地を巡りながら、私はビデオカメラを回していた。
(ビデオ撮影、写真撮影は許可があった。)
印象の残ったエピソードばかりなのだが、小学校教員として、特に印象に残ったエピソードにしぼって紹介する。

南三陸町立戸倉小学校

戸倉小学校は、海沿いにある3階のコンクリート建てだった。その屋上の上はるか5mの高さまで津波が来た。
学校の子どもさん、津波で犠牲になったところは多い。大川小(石巻市立大川小学校)は8割の生徒と教師が犠牲になった。しかし、この戸倉小学校では犠牲者が0だった。
津波の三日前に大きな地震が来た。その後の職員会議で、一人の先生が「津波が来て、本当に屋上避難で大丈夫なんですか。」というような話をした。そしたら、「ちょっと避難する場所を改めて考えましょう。」ということになって、結局<赤い鳥居のある山の上の神社のところに変えましょう>ということに(震災の)2日前に決まった。
戸倉小は、保育園が併設されていた小学校だったので(保育園児もいっしょに)、地震の前日3月10日に避難訓練をした。避難経路が変わったということで。
その次の日に、津波が来てしまった。幸い前日に避難訓練していたものだから、みんな覚えていて、迅速に避難できた。おかげで、無事助かった。
もしその先生が何も言わなくて、そのまま屋上に避難していたら、たくさんの命が大川小学校の比(割合)じゃないくらいにもうみんな亡くなってしまったという大変な事態だったと思う。その先生の一言がきっかけで、全員助けることができた。
保護者は、我が子を救ってくれて本当に感謝していたそうである。(以上、ファーザーによるビデオ再生による要約)

小学校教員である私は、このエピソードを聞いて、教師の語る一言がやっぱり大切なんだと肝に銘じた。

■南三陸町立戸倉中学校

海抜19mの高台にある中学校だから大丈夫かと思いきや、1階まで津波が来た。グラウンドで津波の様子を見ていた9名(生徒でも教員でもない)が死亡。教員と生徒は2階にいて助かったが、<これより高い津波が来たらまずい>とさらに高い丘へ移動する。
途中、一人の生徒が逃げ遅れた。それを助けようとして教員2名のうち、1名は死亡。もう1名の教師は全身骨折で助かった。逃げ遅れた生徒は死亡。
このように、大きい津波が何回(20回以上も)も来たという。
(以上、ファーザーによるビデオ再生による要約)

防災対策庁舎で最後までマイクを握っていた遠藤さん、三浦さん

津波は、防災庁舎の屋上上のアンテナ半分ぐらいの高さまで来た。
当時は40名ぐらいこの建物にいた。まさか津波がこの一番上まで来るとは思っていないので、ここで対策を立てていた。2階が放送室。1階がミーティングルームで、上がヘルメットなどの防災用具を置くところであった。

テレビや新聞でも報道された遠藤未希さんという女性もここで亡くなった。
実は遠藤さんは、(最後の最後までではなくて)途中までマイクを握っていた。途中から三浦さんという男性の方が、マイクを握って放送していた。というのは、遠藤さんは結婚式を控えていたので、三浦さんが、覚悟を決めていたと思うんですけれども、「替われ。」と言った。途中から三浦さんの声に替わった。
それで、遠藤さんが上に逃げて、三浦さんが最後までマイクを握っていた。三浦さんも逃げるタイミングがあったそうで、友達の方が「もうアナウンスはいいから、上に逃げよう。」と言ったらしいんですけれども、三浦さんは非常に責任感の強い方だったみたいで「じゃあ、あと1回放送させてくれ。」ということで、しゃべっている途中で津波がきてしまった。そして、三浦さん含めて遠藤さんも、役場にいた32名の方が亡くなってしまって、助かった方はアンテナにしがみついていた方と、あと右側に白い避難階段があるんですけれども、その階段にぶつかって助かった方8人だけで、あとは気づいたら誰もいなくなってた。町長も階段にぶつかって助かった。
40名いた人が一瞬にいしていなくなってしまった。
(以上、ファーザーによるビデオ再生による要約)

DSCF4008.JPG


語り部による、このような解説があった。

私は、遠藤さんも尊敬するが、この三浦さんを尊敬する。責任感が強いばかりでなく、本当に優しい。結婚式を控えた遠藤さんを上に行くように促し、自分がその替わりを務めたのだから。

これ以外のエピソード

これ以外にもエピソードがたくさん紹介された。

■震災直後、孤立したホテルでの対応の話……語り部のAさん自身、妻と我が子の安否がわからないまま対応していたという。

■ベイサイドアリーナで医療活動をしていたイスラエルの医療班が、規則通り医療器具を持って帰ったら南三陸の人達が困ると考えて、医療器具を忘れたようにしてわざと置いていったという話。

■自衛隊がおふろを作ってくれたり、一番最初に物資をもってきてくれたりして、本当に助かった話などなど。

IMG_2434.JPG

IMG_2436.JPG

プレハブのガソリンスタンド(当初は手動でガソリンを配給していた。)

IMG_2439.JPG

スクラップされる余裕もなく積まれている自動車

IMG_2442.JPG

妻と娘との再会を果たした話など、これ以外にもたくさんのエピソードが紹介された。

防災対策庁舎は残すべき!

現在のところ、防災対策庁舎は、この9月に取り壊す予定になっているそうである。
被災者の遺族の中に、<庁舎を見ると、悲惨な思い出が蘇るから早く壊してほしい>という要望があるからだそうだ。

私は、防災対策庁舎は絶対に残すべきだと考える。なぜなら、この悲惨極まる大震災を確実に後世に伝えるべきだと考えるからである。それには、この<防災対策庁舎>が不可欠だと考えるからである。
<防災対策庁舎を保存すべきかどうか>は、既に一遺族の感情を超えたものになっていると思うがどうだろうか。

10年以上も経てば、原爆の落とされた広島が復興したように、今のような家の土台の残る空き地はきれいになっているだろう。がれきの山も、スクラップされる余裕もなく山積みされた自動車も、鉄骨だけが残ったビルも、仮設住宅もなくなっているだろう。
その代わりに、復興した商店街、新築された住宅、整備された橋や道路がいっぱいになっているだろう。そうすれば、いくら大震災のビデオ映像や写真があるとは言っても、やがて風化していくものなのだ。目の前に本物がなければ。

10年近く前、広島の原爆ドームと原爆資料館を訪問したことがある。
原爆ドームを目の当たりにしたとき、「ああ、やっぱり本当に原爆はこの地に落とされたのだ!」と思えた。これが本物のもつ力である。

今回の「震災を風化させないための語り部バス」ツアーにしても、防災対策庁舎がなければ、画竜点睛を欠き、震災のすさまじさは、迫力と実感をもって伝わらなかったに違いない。本物は存在するだけで、圧倒的な迫力と説得力をもっているのである。体験者による実話や、山ほどのビデオ映像をもってしても、代わりになることはできないだろうと思う。

また、「記念に残す云々にも、お金が必要で、そんなことよりも、今困っている現地の人の復興予算が先だ」という政府や地方公共団体の方針もあるそうだ。確かに復興予算が先なのかも知れない。

しかし、同時に保存活動を、国や地方公共団体はしっかりとやってほしいと、私は思う。 津波の恐ろしさを伝えるばかりでなく、その中にあっても一人でも多くの人を津波から救おうと最後の最後までマイクを握り放送するという職責を果たすことに命をかけた人達がいたこと。結婚式を控えた人への、命をかけた思いやりの行為。
「津波が来て、本当に屋上避難で大丈夫なんですか。」という提案を職員会議でした教師。その提案を真摯に受け止め、結局<赤い鳥居のある山の上の神社のところに変えましょう>と変更したこと……等々。
このような実話を合わせて、後世に伝えるためにも。
そして、それらは、復興と同じぐらい価値があると考えるがどうだろうか。

付記

・遺族の間にも、保存すべきかどうかで賛否はわかれているらしい。cf.南三陸町の防災庁舎「保存議論する場を」遺族ら要望書提出へ

私は、今回のブログ記事を発信したことも保存を促すための一つの行動だが、南三陸ホテル観洋の女将さんや、佐藤町長にも手紙を出そうかと考えている。※8月19日に女将さんの阿部さんへ親展・速達で手紙を出した。おそらく明日着いているだろう。

・今回の二泊三日の家族旅行では、この後、山形県の山寺や、蔵王、米沢も観光した。わが家4人とも、一番心に残ったのは、この被災地ツアーであった。
初日に見た世界文化遺産の中尊寺金色堂や、三日目に見た、松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と読んだ山寺(立石寺)よりも、わが家全員の心に残ったのである。
それこそ、防災対策庁舎をはじめとしたものが、本物であった何よりの証拠である。

こういう言い方は、不適切かも知れないが、広島原爆ドームがそうであるように、観光資源になり得ると思う。防災対策庁舎ばかりでなく、いくつかのポイントの保存も必要だろう。保存の是非について、長い目で見た判断をしてほしいものだ。

防災庁舎ばかりでなく、戸倉小学校跡や戸倉小学校のみんなが避難した神社なども、残すべきだと考える。

【追記8/24】2012年8月24日付けの読売新聞に、「亡き母への思いを記した壁を保存」という記事が載っていた。陸前高田の戸羽市長は「後世に事実を伝えるには、保存が有効だと思う」と話し、約220万円かけて、9月上旬に切り取り作業を行うと書いてあった。「9月中旬からは公民館も解体される予定」とも。
公民館勤務中になくなった母親へのメッセージ「これからもみんなのこと 天国で見守っててね」を記した小松佳菜さん(24)(盛岡市)は、「壁だけでは、津波の恐ろしさは伝わらないと思う。約80人が亡くなった場所でもありる公民館を残してほしい」と訴えたともあった。
私は、佳菜さんの言うとおりだと思う。美しい部分、光の部分だけを残しても、その美しさ、光の輝きは半分以下にしか伝わらない。醜さ、光の影の部分が存在して初めて美しさ、光は際だって見えるものだ。この辺りがわかっていないらしい。
小松佳菜さんのいうように、公民館を合わせて残せば、南三陸町の防災庁舎と同じように、美しいエピソードともに、その教育的価値は高いものとなる。このことは、集客力が高まることを意味し、それはすなわち観光資源としての価値が高いということとイコールである。世界遺産の中尊寺金色堂や毛越寺を見て、そのまま関東地方に帰っていた人たちが、三陸海岸を周り、そこに一泊していくかの分かれ目がこの一点にある。
10年近く前、出雲大社に参拝した帰りに、広島に立ち寄ったのも、原爆ドームを一目見たいと思ったからである。どこでも見られる震災のビデオ映像だけなら、わざわざその地に立ち寄る必要などないのである。教育的価値(=観光資源としての価値)を損なわないために、私は公民館を取り壊すのには、反対である。

・仮設住宅などの一棟(一室)保存しておく必要がある。「こんな狭いところで家族4人で暮らしていたんだな。大変だったろうな。」という感想がもてるように。

・首都圏から一泊二日で「被災地に学ぶツアープログラム」が組めるかどうかが、キーポイントになるだろう。それには被災した建造物の計画的な保存が不可欠である。

24日夜、女将の阿部さんと電話で話した。「あっという間に、戸倉小学校は壊された。」と聞いた。こんな調子で、復興という名の下に被災した建物を壊していたら、わざわざ三陸海岸を巡っていこうなどという人は、いなくなってしまうだろう。「もう復興したそうよ。」で終わりである。
私のアイデアは、戸倉小学校の跡地に、広島にある「広島平和記念資料館」のようなものを建てることだ。予算がないのかもしれないが、語り部ツアーに参加した国会議員もいたようだし、政府への働きかけという努力をまずしてみてはどうだろうか。

・写真が少ない分、ビデオ映像が実は充実している。それをアップしようかどうか迷っている。

南三陸町立戸倉小学校HPより

小さいけれど大きなしあわせ
作詞 作曲 平成23年度4年生14名

家族に会えたとき  しあわせ
電気がついたとき しあわせ
水道が出たとき しあわせ
友だちと ひなんして
ごはんを 食べた
自衛隊のおふろに
のびのび はいった

学校が始まったとき しあわせ
ランドセルもらったとき しあわせ
たきだしが来たとき しあわせ

ラーメン カレー かき氷 たこやき
牛どん ソフトクリーム
フライドチキン やきいも

エグザイル AKB
清原 ジュディ・オング
サンドイッチマン コロッケ
サンプラザ エソラビト

いろんな人に会えた しあわせ

二重とび 三重とび
渡り鳥 とんだよ
鉄棒 マット運動
季節も まわったよ

みんなでがんばったこと しあわせ
明日を生きること しあわせ

ありがとう ありがとう

南三陸町・未来に歌をプロジェクト
音楽監督 榊原光裕先生
作詞ワークショップ 吉川由美先生

作曲ワークショップ 榊原光裕先生
戸倉小担当 河野唯・佐藤ゆかり

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ツールバーへスキップ